初心忘るべからず

初心忘るべからず

世阿弥が50歳半ばから61歳ごろに書いた「花鏡」の書の結びに残した文章がもとになった言葉です。

「しかれば当流に万能一徳の一句あり。 初心忘るべからず。この句、三ヶ条の口伝あり。是非とも初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし」

 

意味

世阿弥にとっての「初心」とは、苦境にあった時、試練を乗り越えていく時の心、苦しみ、考えたことなどを意味しています。
世阿弥にとっての「初心忘るべからず」とは、幾つも訪れる試練とそれをどうやって乗り越えたかという経験を忘れるな、後世の物にもしっかりと伝えよと言うことです。

 

教え

ここで言う「初心」とは「最初の志」に限られてはいません。
世阿弥は、人生の中にいくつもの初心があると言っています。

初心、時々の初心、そして老後の初心です。
それらを忘れてはならないというのです。

「初心」

この「初心」とは、「最初の志」でしょう。
どんな希望を持ち、どんな辛い練習にも耐え、目指す名人になる志のことです。

例えば、若い時に頭角を現し周りから認められた時に「初心」を忘れるな。
周りの誉め言葉に有頂天になり、自分は才があると天狗になり、その思い上がりが成長の壁となると言っています。
初心を忘れず精進しなさいとの戒めです。

 

「時々の初心忘るべからず」

歳とともに、その時々に積み重ねていくものを、「時々の初心」と言う言葉に表しました。
若い頃から、最盛期を経て、老年に至るまで、血気盛んな若い舞、落ち着き熟練美をまとう舞、その年齢あった舞をおどることが求められ必要とされる中で、どう考え、どう工夫したか、その経験を忘れるなと言っています。
それぞれの年齢というものは、その人にとっては初めての体験であり、年代 ごとに初心ありということなのでしょう。

 

「老後の初心忘るべからず」

いつか体力的に衰え、満足できる舞がおどれなくなる時が訪れます。

世阿弥の父、観阿弥は、52歳で亡くなる15日前に、静岡市の浅間神社で奉納の能を舞いました。
体力が無い状態なのかその動きは少なく控えめな舞でした。
しかし見ていた観客は、小さな花が芽吹くように見え、賞賛を送ったと言われています。

能の舞には限界が無く、技術でもって観るものを魅了することができると考えたのでしょう。
今までの力強い舞ではなくとも、「初心」を忘れず新たな取り組みをせよ言っています。

まとめ

常に最初の志を思い出し、その時々に合った工夫を凝らし、どんな困難な問題にも新たな気持ちで取り組みなさいと言うことでしょう。

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